てん菜糖の歴史

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てん菜糖はドイツ生まれ

てん菜糖が発見されたのは、1747年のことです。ドイツの化学者マルグラーフが、てん菜の根から砂糖を分離することに成功しました。てん菜は、カスピ海やコーカサス地方の原産で、家畜の飼料として用いられていたと言われています。それまで、てん菜から甘い汁が出ることはわかっていましたが、これがサトウキビからとれる砂糖と同じ成分であるとは知られていなかったのです。この後、世界初のてん菜糖工場が設立されたのは、1801年のことでした。

育ての親はナポレオン

てん菜糖の製造が急速に広まったのは、ナポレオンによる「大陸封鎖」がきっかけです。トラファルガー沖海戦でイギリス軍に敗北を喫したナポレオンは、イギリスとその植民地の物産を大陸から締め出しました。これまでイギリスを通して輸入していた砂糖の価格はたちまち暴騰しました。そこでヨーロッパでも栽培できるてん菜からのてん菜糖の製造が大いに奨励されたのです。一方で、そうなるとこれまで主要作物として砂糖を作っていた中南米の国々は砂糖を作っても売れなくなってしまいした。そして代わりに広く栽培されたのが今では主産地としてたくさん生産されるコーヒーでした。

日本の甜菜はパリ万博から

日本でてん菜が初めて栽培されたのは、西欧に遅れることおよそ50年余り、明治3年(1870年)のことです。西欧に追いつくことを最大の目標にした明治政府は、農業の近代化にも力を入れ、亜麻や大麦など西洋作物の種子を輸入しては、東京開墾局で試作させていました。てん菜もそのひとつです。当時大々的な開拓を図っていた北海道で、栽培を試みることにしましたが、いくら気候が似ている北海道といっても、そううまくはいきませんでした。転機となったのは、明治11年フランスのパリで開かれた万国博覧会です。明治政府からパリ万博に派遣された勧農局長松方正義(のちの第4代総理大臣)は、西欧諸国でのてん菜糖業の隆盛を目の当たりにし、日本への本格的な導入を決意しました。帰国した松方はてん菜糖業の導入に奔走し、北海道の紋別(現在の伊達市)に官営の製糖工場が建設され、明治14年の1月に操業を開始しました。この官営工場はやがて民間に移管され、北海道庁などの保護を受けながら営業を続けましたが、農業・工業の両面で技術が未熟だったため、明治29年には事業を放棄し、解散することとなりました。

札幌ビール園で乾杯

この間、明治21年には、北海道の援助により札幌に新しい製糖工場が建設されました。しかし、この製糖工場も紋別の工場と同様に事業としては成り立たず、明治34年には閉鎖されました。以後、細々とした試験研究を除き、てん菜糖業は約20年間にもわたり歴史の表舞台から姿を消してしまいました。この札幌の製糖工場は、後にビール工場として生まれ変わりました。これが、現在の札幌観光の定番スポット「サッポロビール園」の前身です。赤レンガの重厚なたたずまいの中、グイっと飲みほすビールはちょっとほろ苦く、しかし実に爽快です。

十勝(とかち)で復活

てん菜糖事業が再び歴史の表舞台に登場するのは、大正8年のことです。北海道にてん菜を導入しようとした松方正義の夢はやぶれましたが、その子息松方正熊は帝国製糖社長として、てん菜糖業の企業化を企画、機が熟するのを待っていました。また、台湾で実績を積んだ糖業資本も、北海道・朝鮮・満州のてん菜糖業に強い関心を示しました。第一次世界大戦の戦勝国として、日本経済は活気を呈したことを受け、大正8年と9年に相次いでてん菜糖事業の新会社が設立されました。松方正熊が興した北海道製糖と、旧日本甜菜製糖の2社です。両社はそれぞれ十勝国の帯広と清水に工場を建設し、操業を開始しました。てん菜糖業は約20年ぶりに復活しましたが、期待に反して現実は厳しく、両社とも創業直後から早くも経営難におちいるなど、苦難の道を歩みました。のちに両社は実質的に合併して、現在の日本甜菜製糖株式会社(当社)に受け継がれています。

甜菜糖業の企業化

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畑から、食卓へ。

てん菜産業のパイオニア